体の面白さに関心を持つことで
「座る」の見え方も変わってくる
日本はもともと「腰かけ」ではなく「床に座る」文化ということもあり、武術の中でも座技が発達してきました。居合もそうですね、「居て」「合わせる」ですから。それに昔は、殿様のいる座敷では立って歩くことはできず、みんな膝行(しっこう:ひざまずいて移動すること)をしていました。床に膝をついて腰を下ろす「座る」は、日本人の生活に深く浸透してきた姿勢です。
「座る」には、正座、立膝座り、腰かけなど、国や文化によってもいろいろなスタイルがあります。どの姿勢が一番体にとって自然かは、その人の育った環境や慣れを抜きにしては考えられず、一概には言えません。昔は列車の座席の上でわざわざ正座するおばあさんを見かけたものですが、正座に慣れ親しんだ人にとってはその方が楽なのです。
また、少し不安定な方が姿勢として動き出しやすいということもあります。跪座(きざ:足のつま先を立てた正座)はある意味不安定で“崩れやすい”座り方ですが、だからこそパッと次の動作に移ることができます。普段イスから立ち上がるときも、「どっこいしょ」と腰を上げようとせず、足から前に“崩れる”ようにすると楽です。その“崩し”を左右の足で行うことで、互いに打ち消し合って“結果として”フッと立てる感覚。マイナスとマイナスの掛け算がプラスになるようなものです。
こうした体の面白さにもっと興味を持つことはとても大切です。日常の動作も「ああ、こうすると楽かもしれない」とちょっとずつ変えていく。それを繰り返すことで肩こりや腰痛も“氷が解けるように”スッとなくなっていくことがあります。人は何をするにも必ず体を使っていますから、その働きをいかに効率よくするかによって、その結果がいろいろなところに現れてきます。ですから健康に気を付けようと思うなら、まず体への関心をベースに置く方が建設的ではないでしょうか。そうすれば仕事上のアイディアも、いろいろ湧いてくるものです。
意識や現象より前に、まず体の摂理がある
体が「動きたい」ように動かすことが大切
体の面白さを物語る一つの例として「ヒモトレ」があります。太さ4ミリから6ミリ、伸びすぎず、伸びなさ過ぎない、丸い径の紐を体のいろいろな部分に巻くことで、動きがスムーズになったり強い力が出せたり、疲れや痛みも軽くなるのですが、不思議なのは紐がこれ以上、太すぎたり細すぎたりすると、まったく効果が出ないことです。おそらく、太いと皮膚に刺激を与える部位が“面”として広くなりすぎるからでしょう。また、丈夫でも細い紐では皮膚が侵入される感じがして安心できないのでしょう。両方とも全く効果がありません。“面”ではなく“線”として特定の“位置”を限定して示すことで、体は不思議な働きを発揮します。紐を分厚い服の上から巻いても効果が変わりませんから、人間の体には驚くほど繊細な感知力があることがわかります。
長時間座り続けるときや睡眠するときも、紐を臍のまわりに巻いたり、たすきに巻くと体が楽になります。また、このヒモトレで、体が動かせなくなり筋肉が落ちてしまった人が、再び体を動かせるようになった例もあります。これは“本人の頭の意識”より先に“体の意識”が変わるということなんですね。紐に反応して、「ほんのわずかなら動けそう」という感覚が体の中でまず湧いてくる。そして動けそうな連想が拡がってきて、実際に少し動けば、「動ける!」という確信が生まれ、さらに動かして……という好循環の中で筋肉は少しずつついてくる。そうして実際に動かせるようになるという“現実”が、“結果として”起こるわけです。なお、ここで重要な事は、紐は決してきつく巻かない事です。「こんなゆるくて大丈夫か」と思うほどでも効果を発揮しますが、実際には各人が試して、その紐の巻き具合を自得してください。
頭で考える意識や実際の現象より前に、まず体の摂理があるのです。体は本来「こう動きたい」という意思を持っているもの。それなのに人の思い込みが出しゃばって、動けなくしていることがあります。ヒモトレに呼応しているのは、この本来の「動きたい」意思です。体の摂理に沿った活動の中で自然についた筋肉と、単純にトレーニングの刺激に対する反応としてついた筋肉では、圧倒的に前者の方が“使える”というのも、やはり体が動くことの必然さを実感することの大切さを示しています。
体の使い方で、出せる力や感情も変わる
「座る」の中にも未知の可能性がある
電車などで腕を組んで座ったまま、居眠りをして上体が倒れそうになっている人がいますが、左右の腕の組み方を普段何気なく組んでいる、やりやすい方とは逆にすると、姿勢は安定します。ちょっとした違和感を与えるだけでも体は不思議な反応をするのです。人間の体がどう設計されているのか、どう「動きたい」ものなのかを知れば、ほんの些細なことでも驚くような効果を生むことができます。
たとえば、体育座りで座っている人に胸の前で手を組んでもらい、そこに自分の片手を入れて引っ張り起こそうとしても、自力で立てない相手を立たせるのは簡単ではありません。しかし、入れる手の指を「旋段の手」という指がラセン階段のように握り込まれた形にして、その形を維持することだけを考えて体全体を後退させると、軽く相手を引き起こすことができます。普通に片手で引っ張ろうとすると、どうしても手と腕が出しゃばって、自分たちが主になって引き起こそうとしてしまうので出来ないのです。そこを、「旋段の手」という形にして、手と前腕を強く緊張させるようにすると、手や腕は他の仕事をする余地がなくなります。そうすると、ようやく背中とか腰とか、腕よりももっと大きな力が出せる部分が働くようになるので、起こす事が出来るのです。
また、目の前に刀を振り下ろされると、本気で斬ってくるわけではないとわかっていても、思わず逃げ腰になる人が普通です。しかし、こういう人が手の指を「蓮の蕾」という形にして、その薬指同士を引っ掛け、互い違いに押し合うようにして肩を下げると、顔の前に刀を振り下ろされても、先ほどは怖がって逃げ腰になっていた人とは別人のようにたじろがなくなります。というより“たじろげない”のです。これは、「蓮の蕾」の手にして、その両手を押し付け合って肩を落とすと、横隔膜が押し下げられ、視覚的に「怖い」と思うような状況になっても、「怖い」と思う時に必ず起こる横隔膜が縮み上がるという現象が起こらないため、「怖い」という感情が生じないのです。つまり「怖い」という感情は、実は横隔膜が縮み上がるという身体的な動きを通して初めて「怖い」という感情が生じるのです。
こうした心と身体の関係を実感すると、人の心の問題も意志で何とかしようとするより「体の使い方を変える方が早い」ということがわかります。学校体育の重要さも本来はそうした感情をコントロールする事が大きな目的な筈なのですが、残念な事に現在はそうした事に目が向いている人は殆どいないのが現状です。こうした心と身体の密接かつ微妙な関係がわかってくると、「座る」という形の中にも、心に働きかけるさまざまな要素が隠されている可能性に目を開く事も出来るのではないかと思います。体をもっと創造的に開発する未知の「座る」は、まだまだ探っていけば大きな可能性があるように思えます。