自動車の基本構造は、
1908年に生まれたT型フォードから変わっていない
人間は移動します。人間にとって自動車とは欠かせない存在です。ところが、いま日本で作られている自動車の基本型は、100年以上前にアメリカで生まれたT型フォードから変わっていないんです。座るというテーマで考えると、自動車のいすがあるのもT型フォードのレイアウトが基本型です。運転“席”があって、そこに座って運転するものだという固定概念がある。だからこそ、自動運転で「運転」をしなくなったときに「席」= いすがどうなるかという発想が必要です。従来の「自動車の形」「いすの形」にとらわれていては駄目でしょう。
例えば、「座ると楽」だと思いますが、体を休めるという意味では、座ることと寝ることに大きな差がないんです。下肢への負担がないと疲れないという研究成果があり、それによると座っていても下肢への負担がないので、寝ているのと同じになる。ところが、現実は、いすに座っていると腰が痛くなるし、痔になるし、もっとひどいとエコノミー症候群になってしまう。これでは、座ることが体に悪いということになります。
むしろ座り心地が悪いいすのほうが、
学習や仕事の効率が良いのかもしれない
改めて、日本人にとって“座る”とはどういうことかを考えてみると、これが面白い。日本人は、千年以上前からいすの存在は知っています。ところが、いすを知っていて作ることも可能だったのに、普及していなかった。ずっといすを使わずに“疊に座る”という行為を選んできたのです。この理由はよくわからない。もしかすると、日本人の体型とか、骨格が影響しているのかもしれません。
児童の学習に関するデータで、「いすに座るよりも、畳の上で学ばせた方が効果がいい」というものがあります。最近では企業のオフィスでもいすに座って働くだけではなく、スタンディングデスクというものもあります。「座る」= 休める、勉強や仕事がはかどるというわけでもないようです。むしろ、疊に正座した方が勉強の効果が上がるのは、足が痺れるからかもしれない。足が痺れるから、ときどき足を動かす。足を崩したり、伸ばしたりする。すると脳に刺激が届き、活発になるということかもしれません。そういった視点で考えると、小・中学校のいすというのは堅くて座り心地が悪いものが多いと思いますが、それでいいのかもしれない。日本で普及した畳の上で使う坐いすなども、柔らかくて座り心地が良いというよりも、堅いものが多い。日本人はそれを知っていたのではないでしょうか。
いまのいすのデザインは
人間の行動を制約するもの
いま、自動車のいすというとホールド感を重視したり、人間工学に基づいて設計したりするなど工夫されているのですが、それは従来の発想から離れられていないと思います。T型フォードの呪縛にとらわれたままなのです。例えば、新幹線のグリーン車に乗っても、3時間ずっと座ったままではいられません。自動車でも2時間も運転すれば休憩しなければならないし、どんなに良いいすでも疲れてしまう。いまのいすのデザインは、人間を縛りつける、行動を制約するものになってしまっているのです。
腰が痛くなる、痔になる、エコノミー症候群になる、そんないすを作っていてはいけない。長時間座っても、体が悪くならないいすを考えていかないといけないんです。それはいままで考えていた「快適ないす」とは違ったものかもしれません。柔らかくてフカフカで、体を包みこんでくれる、そんないすではないでしょう。堅くても足を伸ばせて、リラックスできる。そのうえで、求められる安全性が保てている。それが究極の自動車のいすかもしれません。
人間は変化に愛着を覚えていく
そこに快適さも潜んでいる
私が仕事をするときは、いすに座る、つまり縛りつけられている時間と、寝ころがってじっくり思索にふける時間を交互に繰り返します。文豪のデュマは、寝そべって原稿を書いていたそうです。いすに座って机に向かうのがベストではないことはわかっているんです。人間工学に基づいたいすなどと言われますが、ああいったいすは人間の骨格や筋肉しか見ていない。人の“心”を考えていないんです。
家でも自動車でも、新築、新車が一番良いかというとそうでもない。人間には愛着というものがあります。では、何に愛着を感じるのか。それは「変化」です。家がなじんでくる。少し色褪せるけれど、使い込まれてくる。自動車でも、ハンドルの一部が少し変型して手になじむ。これが愛着です。でも、少し変わる、変化していくことで人間は愛着を覚える。そこに「快適さ」も生まれるんです。そもそも、人間は自然の中で快適さを感じます。そして自然は変化するものです。いすだって、変化していって当たり前なんです。